セルフビルドという思想|清水陽介さん




みなさんこんにちは。今日はセルフビルドということで話そうと思いますが、どうしてそうなったのかというバックボーンのところからお話ししようと思います。私はプロの大工で、普段は地下たびと鉛筆という作業服か、背広しかないものですから、今日はこっちのほうが失礼がないだろうと思い、背広を着てきました。

生きていくのに何が必要か
生きていくのに何が必要か?ということを自分なりに考えてきました。大工になったのは比較的遅くて、25歳から35歳まで親方に付いて建築を学んだんです。学んだと言っても現場です。実務だけです。特に設計を習ったということではありません。大工という仕事を選んだんですけど、仕事そのものを習った10年間の前に、実は自転車で世界一周したことがありまして、そこで感じたことを建築という生き方の中でどう生かそうかということを考えながら過ごしてきました。

そもそも人間がどうやって生きているのか?そんな哲学的にではなくて、現実的にどうやって食ってるのか?ぼくはその旅の間中ずっと考えたんです。21歳から3年半ほど、インドからずっとヨーロッパに向いて走って、アフリカのガーナという国までサハラ砂漠を越えて行きました。ぼくはもうすぐ60歳になるんですが、38年前に何も情報がない中で、でも人間は世界中どこでも暮らしているから多分大丈夫だろう、と。その「多分大丈夫だろう」という安心感は、日本にだってその当時はあまり情報がなくて行ってみないと分からない場所はたくさんありましたから、そういう経験からくるものだろうと思います。海外に行くときにぼくが持って行った情報は、各国の日本大使館の住所を手書きで写したものだけです。そこに辿り着きさえすれば、困ったときも何とかなるだろう。あとは中央郵便局の住所です。日本からの荷物や手紙を受け取るためです。そういうところを辿りながら、旅をしていった。

5年間と決めて旅をしようと思っていましたが、出発して1ヶ月でネパールで盲腸になってしまいました。それで2ヶ月はネパールに滞在することになったのですが、それでもなんとかなるだろうという変な安心感がありました。そういう旅を続ける中でだんだん吹っ切れるという感覚が育っていきました。そしてなにかを探そうとして旅に出たんだけど結果3年半で「何もない」ということが自分のなかではっきりつかめました。そして帰ってきて、無性にものをつくりたくなった。例えばビルを建てるとか橋を建てるとかそういうプロジェクトに参加することも可能だろうけど、自分で全部出来る仕事は何だろうと考えて、それが大工だったんです。住宅であれば、当時は大工さんが設計していたんですが、設計して最後まで仕上げることが出来ます。そういうスタイルに魅せられました。

今から思うと旅の中で、ぼくは多分、たくさんの家を見てきたんだろうと思います。暑いところに行けば、暑いところの家の工夫があるし、寒いところに行けば、寒いところの工夫がある。建築的な視線で見ていた訳ではないんですが、21歳の感性で何かわからないまま、毛穴からしみ込むような形で住宅を見ていたんだろうと思います。帰ってきてから親方について仕事を始めたんですが、寛大な親方で5年目から棟梁でやらしてもらったんです。でも、はたと気がつくと、家を建てることは出来た、と。でもアジアやアフリカで自分が感じたことはそれだけではない。農的な暮らしを自分でやってみたい、ということがむくむくときたんです。そこでせっかく棟梁で仕事も順調だったのに辞めてしまって、滋賀県の一番北にある小さな集落に家族とともに移動して、農的な暮らしをやろうと思ったんです。非常に甘い考えですね、今から思うと恐ろしいくらい。立場も収入源も捨ててしまった。農的な暮らしと言っても食えませんからね、なんせ「農的」ですから。

親が農家をやっているとかでもなく、全く何も知らない状態からですから、収入を得るために他に仕事をしなければならないということで、スキー場に勤めたりして3、4年うろうろとやっていました。そして5年ぐらいかけてやっと農業の入り口に辿り着いて、あと5年かけて約1ヘクタール分、お米づくりを始めました。計算で行くと5ヘクタールやれば成り立つんですが、ぼくの頭の中では農薬も肥料もやらないというこだわりがあったんです。で、そのこだわりのために失敗しました。やっている人はわかると思うんですが一丁の田んぼを無農薬ということだけでも大変です。だから今は、二反だけ田んぼをやっているんです。

前を向いて行くしかないという感覚
そういう経験の中で、大事なものはなんなのかつかみ始めました。食うために米が要ります。寝るために家が要ります。着るものはまあ誰かのお古をもらってもいいと。そういう生活を40歳くらいまで続けたんですね。しかし、ちゃんと食えないとダメだということで建築に戻ってきました。今度は親方のところに戻った訳ではなかったんです。自営だったのですがとにかく前を向いてやるしかない、と。前を向いて行くしかないという感覚は、旅で嫌という程わかってます。自転車ですからペダルを止めれば止まる、漕げば前に進みます。目の前の仕事をほったらかして何か考えてもしょうがないから、前を向いて動くしかない。

自分の手で何でもやれる
今は住宅を年間に5、6棟建てれるようになりましたし、従業員は8人います。こういうところに来て大工らしからぬ話をしているときも仕事は回っています。ここに辿り着くまでに10年かかったのですが、7年前から「どっぽ村プロジェクト」というのを始めました。(スライド)随分前の資料なんで「循環共生社会」なんて書いてありますが、最近こういう堅い話はしません。腹が減ったら飯がいるし、雨が降ったら屋根がいる、というようなところで落ち着いているんです。
(スライド)実はこれはぼくの手です。10年間大工もやった、農業もやった結構分厚い手なんですね。若い人たちに言いたいのは、「自分の手で何でもやれるんですよ」ということ。その一番のもとになるのは「手」です。自分の手なんです。「お手は宝や」というのは村のおばあちゃんが教えてくれた言葉です。みんなの手が集まれば出来るんだと。情報とか知識とかも要るんですが、本当に安心できるのは自分の手の中にそれを持ってるかどうか、それがぼくにとっての安心材料なんです。大工もするし、米も作るし、綿もつくるといろんなことをやってきましたが、そういうものを提案して学校のようなものを作ろうと、やっとそれが琵琶湖の北端の場所で7年前にスタートしました。
「どっぽ村」の名前の由来は、「国木田独歩」から来ています。国と木と田んぼ、そして独歩、それぞれが自立して暮らせる人たちがいっぱいいるのが「国」なのではないか。どっぽ村の定住者も20名くらい、村全体の1割くらいにまでなっています。人口が増えているんです。今ほとんどの村が過疎化していく中で、少しだけ仕事の仕方を変えるだけで、つまり農業と建築をつなげるだけで食えるようになるんです。

暮らしの多様性
暮らしの多様性をどんな風に表現するのか?買ったり、選んだりということを重視する場合には多様性はそんなにない。それに対し「つくる」ということをたくさん増やしていけば、多様性も大きくなるんです。今の木組みの建築は木を刻むということをしません。プレカットと言って図面を工場に送れば、40坪くらいの家でも、わずか2日くらいで部材が手元に届きます、そういう時代になってしまいました。でもそれは、自分の手の中にはないんですね。経済としては成り立つんですが、自分で木を刻んだり、家を建てる能力がないまま、仕事が進んでしまう。ぼくはそれを良しとはしない。自分で木を刻んだほうが面白いんです。ぼくはひとり親方なので、工務店には属していません。自分で設計をして、と言っても、親方から習った手法をぼくなりに改良してお客さんに説明して、どうですか?と。今だと瑕疵保証とかいろんな問題があって、住宅を一個人に任すということは難しいのですが、ぼくは未だにそのスタイルで通しています。営業は全くしてないんですが、どういうわけか勇気のあるお客さんがみえて年間5、6棟は建てています。
こうしてやっとセルフビルドに辿り着くんですが、一般的に家を建てるときの選択として、ほとんどの場合はローンを組んで建てます。メーカー住宅で安心な家を建てる。でもその安心な家のために一生働かされる。これは「主体的」ではないと思います。そしてセルフビルドで建てると自分で決めたのであれば、それをやればいいと思うんですが、中には途中で、自分で決めたにも関わらずポイっと捨ててしまう人がいます。自分で決めたんだけど出来ない、ということは多分、何かに押されてやっていたに過ぎないのではないか。でも進んでしまった以上はそれはやるしかない。当たり前のことです。

なにか社会に変化が起きている
一年半どっぽ村に来ていた27歳の男性は、米国資本のある証券会社に勤めていて年収8千万円でした。その仕事を辞めてどっぽ村に来て、なぜ職人の仕事を習わなければならないのか?その頃から時代の変化を感じています。大工のおっちゃんであるぼくが今日ここでIAMASに来て喋るということも、なにか社会に変化が起きていると思うんです。喋ることは本業ではないけれど、やってきたことは話すことができます。ただそれだけなんですけどね。自分にとって確かなものというのは積み上げていって初めて自分のものになる。情報とか架空のもの、想像することもある意味積み上げていけるんですが、それはほとんどは流れます。自分の中でこれだ、といえる確かなものをもてるかどうか、そういうものが不安を消す大きな要素ではないかと思います。セルフビルドはこの手を使ってできる最大の仕事だと、若い頃にそう思ってやってきて、間違いないなと思っています。地震が来ようが台風が来ようが家が壊れたらまた建てればいいんです。

中間的なところ、グレーゾーンの幸せ感。「これからの創造のためのプラットフォーム」というお題で言うば、未来に向かって確かなものを掴みづらい中で、われわれ職人の仕事というのは中間的で多様なものだと思います。幸せ感とかは、働かされる時間が増えるとその質は下がっていくんじゃないでしょうか?自発的な部分をどうやって増やしていくのか?わたしは経営者でありながら労働者という両極の中間的なところにいます。社会人でありながら学ばなければならないという学生の部分ももっています。そういう中間的なグレーゾーンがあったほうがいいんじゃないのかな。このグレーゾーンに幸せ感のような質的な部分があるのかなと思います。自分の職の幅を広げる、買う人でもあるけど作る人でもありたい、というのが今のぼくの心情です。最後になりましたが、これは誰の句かわかりません。
「春に花 夏に涼風 秋に月 冬に雪あらば足らぬものなし」
日本は本当に豊かな国です。さっきの砂漠の写真とは明らかに違う風景が目の前にあります。でもそういうことにあまり感動を覚えないのはなぜか。もっと目を開いて自分の素直な気持ちで感じようとする感性が今後の未来のプラットフォームになるんではないかなと思います。今日はありがとうございました。