フランシス・アリス|吉崎和彦さん





東京都現代美術館で企画展を担当している学芸員の吉崎と申します、よろしくお願いします。去年「フランシス・アリス展」を、ぼくの初めての企画展としてやらせていただきました。この展覧会は、2013年の四月から六月に第一期、そして第二期は六月から九月までと、東京都現代美術館にとっても異例なことで、ほぼ半年にわたって一人の作家の個展をやらせていただきました。


フランシス・アリスはベルギーで生まれ、現在メキシコシティに住んで活動している作家です。どんな作品を作っているかと言うと、都市空間に出ていって、街の中を歩き回り、そこから見えてくる日常に潜んでいる問題を捉えて、例えば作家が街中で行うアクションであったり、数百人の参加者を伴った大規模なものまで様々なプロジェクトを世界各地で行っています。そうしたアクションは、記録映像であったり、写真、絵画、ドローイングといった多様な形式で展開されています。作品の特徴としましては、社会的、政治的な問題を扱っているんですが、決して直接的な表現ではなくて、詩的で、物語性に満ちた作品として提示しています。今回の話でも、物語性というところに特に注目してお話ししていきたいと思います。その作品は、メキシコの問題であったり、あとでご説明するジブラルタル海峡の問題であったりと、特定の地域の問題を扱ってはいるんですが、ある種の普遍性を備えているがゆえに地域や文化を超えて誰もが共有できるようなものであり、そういった卓越した表現で国際的に高く評価されてきました。

最初に、《トルネード》という作品を紹介します。端から走って来ているのがフランシス・アリスです。メキシコシティの郊外にあるミルパ・アルタというところに、毎年乾季のピークとなる三月に彼は車を走らせて向かっていって、ビデオカメラを片手に持って竜巻の中に突入していくというアクションなんですね。彼はこれを10年間続けました。展覧会のほうでは10年の、彼のいろんなかたちのトルネードに突っ込んでいくというものを、大体60分くらいにまとめて展示しました。彼が竜巻に突っ込んでいくというドン・キホーテ的な行為は、最初のきっかけはトルネードの中はどんなふうになっているのかという純粋な興味からでした。それで実際に突っ込んでいった。それを10年間続けることによって、メキシコ、あるいはラテンアメリカの社会を寓意するかのような作品になっていったというものです。

フランシス・アリスは1959年にベルギーのアントワープで生まれ、最初は建築を勉強します。建築の前にはエンジニアリングを勉強し、ヴェネツィアに留学して建築、特にアーバニズム、都市学を勉強しました。ルネサンスの西洋の都市がどのように近代化を進めていったか、そしてその過程で、野生の動物をいかに近代の都市が排除していったかということを研究していました。その後1986年、メキシコに渡るんですが、それ以来ずっとメキシコに住んでいます。当時ベルギーには徴兵制がありましたが、彼は軍隊に入らず、その代わりに社会奉仕活動に従事することを選択し、いろんなNGO団体に応募したんですね。そこでたまたまオファーがあったのが、メキシコの先住民の村を復興させるプロジェクトで、それでメキシコに渡りました。

彼は当初はメキシコでも建築家として働いていたんですが、1989年頃、彼が30歳になった頃に建築家をやめて、アーティストとして本格的に作品をつくり始めます。それまで彼は別に美大に行っているわけではないので、絵の描き方や作品のつくり方を大学の教育で学んでいるわけではありません。なぜ建築からアーティストに転向したかと言うと、建築は一つのプロジェクトを遂行するために非常に時間がかかりますけれど、アート、特にパフォーマンスのようなものは、その場ですぐに作品を作ることができるから。もう一つはメキシコシティ、近代化で勢いがある中で人も物も溢れている街で、そこに建築家として都市に何か物理的にものを足すということはもう必要ないと彼は考え、アーティストに転向した。そこで彼が考えた実践というのが、都市に「物」ではなくて、「物語」を挿入するということだったと言っています。こうして30歳から本格的にアーティストとして活動し始めます。

これは写真作品で、《観光客》という作品になります。1994年の作品ですので、アーティストとしてキャリアをスタートして五年目ぐらいのものになります。メキシコシティの中心部には大聖堂がありまして、その周りにはいつも大工や配管工などの職人たちや、日雇い労働者たちが仕事を求めて立っている場所があります。写真の中央でサングラスをかけて立って、足元に「TURISTA」、英語で言うとツーリストですね、観光客という札を置いて立っているのがフランシス・アリスです。彼は193センチですかね、非常に長身で、白人です。メキシコ人は日本人と身長はそれほど変わらなく、肌は浅黒い。そういう中にいるとフランシス・アリスというのは非常に目立つ存在です。地元の人にとって彼は外国人であって、「他者」なんですね。彼の作品というのはメキシコをテーマ、素材にしている。自分たちを素材にして、国際的アートマーケットで成功してお金儲けをしている、そういった批判もあるようです。ただ彼がこの作品で言っていることというのは、あくまでも私は観光客であると、ある種開き直った態度を示しています。彼は観光客であったとしても、プロの観光客、プロの観察者としてそのコミュニティに対して作品というかたちでサービスを提供している。地元の人たち、当事者たちがなかなか気付き得ない問題点や社会の矛盾を、彼が第三者として作品を通して伝えている。私はこの作品が彼の他の作品でも一貫している姿勢を表していると思ったので、展覧会ではこの作品を入ってすぐの正面の部屋に象徴的なかたちで設置しました。ほぼ等身大で写真を引き伸ばして壁紙のようにして貼って展示しました。

次に、これは彼の代表作の一つでもある《実践のパラドクス1(ときには何にもならないこともする)》という1997年の作品で、大きな氷が完全に溶け切るまで、朝の九時からメキシコシティの街中を氷を押し続けるという作品です。氷はだんだん小さくなって、疲れてきたときは足で蹴ったりして、かなり小さくなっていって、そして完全に溶け切って終わるという作品になります。これは朝の九時から夕方の六時なので、九時間以上かけて氷を押し続けたというものです。それでこの九時から六時というのは丁度われわれのオフィスアワーの時間にあたりますが、氷を数時間押し続けるという行為は過酷な労働ですし、手も相当痛かったと思います。労力をつぎ込んでも、結局得られるものはまったくない、あるいは僅かだということを見せてくれています。どんどん近代化が進んでいくにもかかわらず、人々の生活はなかなか向上しない。そんなメキシコあるいはラテンアメリカの近代化の状況を寓意していると言われている作品です。一方で一日中働き続けても手許にはほとんど何も残らないというのは、別にメキシコだけの問題ではなくて、われわれの日々の労働にも当てはまることなのではないかと思います。ギリシャ神話のシジフォス的な話にもつながってくるとは思うんですが、こうした一見不条理に見えるような、ある種馬鹿げた行為を通して、アリスは社会の矛盾を寓意するような作品を作ってきました。特にこのメキシコシティという街はかつてはアステカ帝国の首都として栄え、先住民の文化が今なお残り、一方でスペインの植民地時代の名残、例えば都市の作り方であったり、建築物というのは結構残っているんですね。そしてさらに独立後の近代化に進む都市の姿。そしてそこにはアメリカという大国の影があるんですが、メキシコシティというのは本当に複数の時間の層が幾重にも重なっている街なんですね。最初に私が、アリスのキャリアが建築家としてスタートした、特に都市を勉強していたと言ったんですが、アクションという行為が、アリスにとっては都市の幾重にも時間の層が積み重なった、特に複雑に絡み合っているメキシコの街、メキシコシティの都市の構造を身体を通して読み解く行為だったんじゃないかと思います。

その後、アリスはメキシコだけじゃなくて、世界中を旅して作品を作っていくんですけど、そういった作品の多くは、行った先々の場所との交渉の軌跡だったと言えるんじゃないかなと思います。もう一つ注目しておきたいのは、物を残さないという彼の作品というのは当初から変わっていません。最近の作品も基本的にアクションというかたちで、記録としては、映像としては残るんですが、その街に何かオブジェを残すということはしない。特に彼が言及しているのは、ランドアートの、彼の言葉で言うとちょっと傲慢な、ある種環境を壊して残してしまうというところの反省から、何も残さないという選択をし、この姿勢は今も一貫しています。その代わりに、物語を生み出すことによって彼のアクション、彼の行った出来事が都市の伝説となって、ある種の都市伝説となって人々に語り継がれていくということを一貫して行っています。

ここからは特にアリスの国境、ボーダーをめぐる作品を見ていきます。アリスは自分自身が移民であるということから、国境に注目して、そこにまつわる人の移動であったり、それを管理している国であったり、ボーダーを扱った作品をよくつくっています。ダイレクトな形で国境というものが全面に出てくる作品のかなり初期の作品に《ループ》という作品があります。1997年に彼はアメリカとメキシコの国境、アメリカのサンディエゴとメキシコのティファナという国境を挟んで向かい合う街で行われた展覧会に参加します。彼はそこで、与えられた制作費をすべてつぎ込んで、展覧会の会場に行くことそのものを作品とします。ティファナからサンディエゴ、メキシコからアメリカに渡るには、まあ国境を渡ればいいだけの話なんですが、ただこの国境というのはメキシコから多くの不法移民がアメリカに流入し、そこに麻薬のマフィアが絡み、さらに人身売買などが行われるなど多くの問題が発生しています。彼はこの国境を渡らないという選択をします。どうやってその選択を実行したかと言うと、メキシコシティから南下して、南米大陸を南に移動して、チリから飛行機に乗りニュージーランドへ渡り、オーストラリアへ渡って、太平洋を時計回りに回って、 ユーラシア大陸を南から北へ移動し、アラスカから北米大陸に入り、そこから南下してサンディエゴという街に行く、そういった作品を作ります。作品と言っても、展示されたものというのは、地図と、表面には海の写真がついたポストカードだけを展示し、彼がこのような軌跡で旅してここまで来たという物語だけの作品というか、それをポストカードに込めて、作品としてこの展覧会で発表しました。このポストカードというのはアリスがよく使うメディアでもあります。

次に《グリーンライン》という作品を紹介します。これは2004年にイスラエルで作った作品です。1949年の第一次中東戦争の休戦協定で決まったイスラエルの国境線というのが「グリーンライン」と言われているんですが、なぜグリーンラインかと言うと、休戦協定の会議中に、地図上にイスラエルの国境はここですと線を引いた、そのときに緑のペンで引かれた線によって国境が決まったので、通称グリーンラインと言われています。ただそれは地図上に引かれた一本の線であって、現実の土地にはグリーンラインはないですし、特に何かがあるわけでもない。そこで彼は暴力的なまでに引かれたラインをなぞるというアクションを行います。緑のペンキが入った缶の底に穴をあけて、そのペンキをたらしながら国境線上を歩いた。実際に自身の身体を通して、境界線を歩いてみる。地図上に緑で引かれたラインをこういった行為でなぞることによって「グリーンライン」というものをあえて可視化し、人々にその存在というものを改めて考えさせるというパフォーマンスを行います。

次に、橋を架けるプロジェクトを彼は始めます。今までは国境という存在を強調、可視化させることによって、改めて国境の存在というものに気付きを与えたりとか、考えさせるというプロジェクトであったのに対して、これから説明する二つのプロジェクトは、国境を挟んで向かい合う二つの地域を実際に人々の力を使って結びつけるというものになります。これはキューバとアメリカの国境で行われたプロジェクトで、《橋》という作品になります。アメリカのフロリダのキーウェストとキューバのハバナの間は約170キロあります。ここに橋を架けるというプロジェクトなんですが、このきっかけとなったのは、2005年に実際にあった、キューバ移民がアメリカに不法に入ろうとし、アメリカ当局に捕まったという事件でした。アメリカには「濡れた足・乾いた足」政策というのがありまして、キューバから多くの移民が毎年不法に入ってくるんですが、海上で不法移民を見つけた場合、それを逮捕して強制的にキューバに送還する。一方で、移民が見つかった場所が陸地、アメリカの領土の入ったところであれば入国を許可する、という制度があるんですね。2005年にあった事件では、キューバ移民の家族が捕まった場所というのが橋の上だったんですね。橋の上は、陸なのか海の上なのかということで訴訟問題になりまして、最終的には移民のほうが勝って、アメリカ滞在が認められたという結末になるんですが、彼はこの事件を受けて、それならばキューバとアメリカのあいだに橋を架けてしまおうというプロジェクトを行います。簡単に説明すると、ハバナ側の漁師にお願いして、それぞれ持っている船で対岸のアメリカに向かって船をつないでいき浮き橋を作ってくれとお願いします。一方で、キーウェスト、アメリカ側では漁師ではなくて個人の船舶所有者に同じようにお願いして、対岸に向かって船をつないでいってくれと。そして最終的に水平線上でキューバ、アメリカの双方から伸びてきたによる浮き橋が一本につながるというプロジェクトになります。船で橋を作るというのは、例えば日本で言うと「舟橋」という昔からある作り方であったり、軍隊が川を渡るときにボートを並べて対岸までつなぎ、その上に板を渡して、軍隊が渡るときのその軍事上の作戦などでも使われるものになります。実際にフランシス・アリスは日本の浮世絵からもインスピレーションを受けたと言っていました。

次に、この橋を架けるプロジェクトというのは、場所を移してジブラルタル海峡で行われます。《川に着く前に橋を渡るな》、これが2008年の作品ですね。さきほどキューバとアメリカのあいだは約170キロと言ったんですが、スペインのタリファという街とモロッコのタンジールという街のあいだはわずか14キロですので、天気の良い日は対岸をはっきりと見ることもできます。ジブラルタル海峡は大西洋と地中海が合流するところなので、海峡ならではの風が強くて波が高いです。ですから、タリファという街はウィンド・サーフィンのメッカになっていて、サーファーたちが集まってくる街です。私が行ったときは、かすかにアフリカ大陸が見えるという程度でしたが、ここに住んでいる人たち、ヨーロッパ側にとっては、アフリカ大陸が地図上の存在ではなく、実際に目に見える具体的な存在である。一方でアフリカ側に住む人々にとっても、ヨーロッパが現実のものとして見える。でもタンジール(モロッコ)とタリファ(スペイン)のあいだには大きな隔たりがありまして、まず宗教が違う、イスラム教とキリスト教で、昔から争いが絶えなかった。スペインは一度イスラム教国によって支配されていたという歴史がある。タンジールという街は海岸沿いは非常にヨーロッパ系の資本が流入していて、リゾートホテルが立ち並んでいるんですが、一歩街の中に入っていけば、イスラム文化を強く感じさせます。モロッコは経済的には豊かではない状況で、経済的にも格差がある。ジブラルタル海峡を通って、多くの不法移民たちがヨーロッパに流入する。特に2000年代前半は毎年何千何万の人が渡る。そのうちの数千人は渡る途中で難破し、命を落とすという事件が頻発し、社会問題にもなりました。マフィアが不法移民たちをヨーロッパ側に行かせる代わりに麻薬も持っていかせて麻薬取引のルートにここを使ったりとか、人身売買も行われている状況で、これはメキシコとアメリカの状況に重なるところもあって、それもあってフランシス・アリスはここの場所に関心を持ったのではないかと思います。

このプロジェクトは、アリスは美術館やトリエンナーレなどの大きな国際展からオファーを受けて作ったのではなくて、自発的に、自分がこの場所で橋を架けるプロジェクトをやりたいと思って、コミッションではなくて自分から場所を選んで作りました。2006年から2008年にかけて自分でお金を集めて作ったという作品になります。他の作品にも言えることですが、アリスはあまりコミッション・ワークを受けません。こういった大きなアクションであったりというのは、自分のお金、例えば作品を売ったお金などをつぎ込んでいます。もちろん助成金などは自分が申請してやっていたりするんですが、その代わり美術館が付いているわけではないので、交渉事も自分たちで行っているようです。

アリスはジブラルタル海峡を選んだ理由について次のように述べています。「私にはこの海峡が現代に潜む矛盾を突くのに恰好の場所に思えた。グローバル経済の促進をはかりながら、同時に大陸をまたぐグローバルな人の流れを制限するにはどうしたらいいのかという矛盾を」。グローバリゼーションによって膨大な量とスピードでもって、情報や資本や商品が自由に国境を越えて行き交う一方で、人の移動はますます規制されている状況にあります。国境は無くなるどころか、ますますその存在は強固になっているんではないか。一方では国境を越えた交流が推進され、他方では人の移動が制限されている。この現代社会が抱える矛盾というのが、このジブラルタル海峡に縮図としてあらわれているのではないかと。距離的にもヨーロッパとアフリカが最も近接する場所で、わずか14キロ。そしてイスラム教とキリスト教という二つの文化圏が隣接するジブラルタル海峡で、このグローバル化社会が抱える移民問題の縮図を見て、この橋を架けるプロジェクトを行います。
 展覧会では二つのスクリーンを天井から吊るして展示しました。リアスクリーンで、透過性のあるスクリーンなので、裏表どちらからでも見られるんですが、一方がスペイン側から対岸のモロッコ側に向けて人が泳いでいく一本の橋。そしてもう一方が、モロッコ側からスペイン側に向かって子供たちが泳いでいく。大体十代前半の子供たちをスペイン側のタリファという街と、モロッコ側のタンジールという街から、それぞれ100人集めて、スペイン側はビーチサンダル、モロッコ側はモロッコの伝統的な履物であるバブーシュというスリッパのような革靴があるんですが、それに帆を付けて船にして、それを持って、対岸に向かって一列になって泳いでいってもらう。スペイン側からはモロッコに向かって泳ぎ、モロッコ側からはスペインに向かって泳いで、二つのラインが水平線上で結びつくことによって二つの地域が結ばれるというプロジェクトになります。

子供たちの列が俯瞰するようなかたちで見えていますが、そのラインが、展示では一本に見えるような効果を出すための二枚のスクリーンになっている。リアスクリーンなので、反対側でも透けて見えるんで、二枚のスクリーンの向かい合っている真ん中を、確か5メートル間を空けたんですね。そしてお客さんがその中を歩くこともできるし、そこにソファーがあったので、そこからも両側に挟まれて見ることができるような展示をしました。と言うのも、アリスのほうとしては、真ん中に立つと一本のラインが結びつく、そして自分自身も海の中に入っているような効果を見せたいということで、展示のほうではそうしました。波が非常に強いので、なかなか前に進めなくて、子供たちは何度も何度も同じ行為を繰り返します。展示のほうでもループにして、常に対岸に泳いでいくけど波に押し戻される、そして船だけがプカプカ浮いているという絵が現れると。これも不法移民たちがヨーロッパの豊かな生活を求めて渡ろうとして、波に襲われて難破していくという社会状況とも重なり合います。キューバとアメリカの国境で行った橋を架けるプロジェクトと比べると、子供たちを使っていることと、さらに実際の船ではなくて、船のおもちゃを作って持たせているということで、キューバのときと比べるとかなりフィクション性、物語性の強いものになっているのではないかなと思います。最終的に二つの子供たちの列がつながったかどうかというのは、映像からははっきりと分かりません。なので、そこは見ている人の想像力に委ねられます。

あと紹介しておきたいのは、アリスはプロジェクトを進めていく過程で、たくさんの絵画やドローイングを描いています。ジブラルタル海峡のプロジェクトでも、相当な、何百点のドローイングと絵画が描かれているんですね。サイズ的にはポストカードよりちょっと大きめのサイズで彼はよく絵画を描いています。アシスタントに作ってもらった真っ白なキャンバスをリュックに詰めて、それを持って行って、その現場で、旅先で描いたりしています。かなり素朴な作品を描いているんですけど、これら一つ一つにも何か物語が込められているように見える。ジブラルタル海峡の上を巨人化した女の子がたくさんの人々が乗っている船を脇に抱えてジブラルタル海峡を渡る絵、背中に何か都市のようなものを背負った女の子がジブラルタル海峡を渡る《さまよえるユダヤ人》という絵、ヨーロッパ側を望むモロッコの人、コラージュ作品で、ジブラルタル海峡に梯子を渡そうとしている男の子、不法移民を乗せた船を引っ張っている女の子。こうしたイメージというのは現実のプロジェクトと平行して展開している作家の頭の中というか、作家のイマジネーションのあらわれです。こういった絵を描く行為というのは、プロジェクトの準備段階で起こるかなり煩雑な交渉事から自身を解放して作品を別の角度から考える時間を与えてくれた、とアリスは言ってます。

 それではこういった作品をアリスはどのように人々に伝え、どのように広まっていくように作品を設計しているかということに話を移したいと思います。アリスはよく、プロジェクトのポストカードを作って、ギャラリーに置いたりしてお客さんが持っていけるようにしています。さらに、アリスの作品はシナリオがとてもシンプルという特徴があります。例えば、《観光客》という作品のポストカードは「私は大工やペンキ屋と配管工と並んで、観光客としてサービスを提供した」というプロジェクトの説明が一言書いてあります。その他には「トルネードにカメラを片手に突っ込んでいった」であったりとか、「子どもたちの列によってジブラルタル海峡に橋を架けた」とか。大体のプロジェクトは一行や二行で語られるという非常にシンプルな構造をもっています。最初に見せた《実践のパラドックス1》という作品では、「朝から晩まで巨大な氷を解けるまで押し続ける」でした。ポストカードにはプロジェクトの象徴的なイメージに現地の言葉をつけて展覧会会場等で配られます。ポストカードを持ち帰った人は「こんな作品をみたよ」とか、遠くにいる知人にポストカードとして送ったりとかして拡散させていく。シンプルなシナリオであるがゆえに、イメージと一、二行の解説があれば、受け取った人は何が行われたかについて想像しやすいんですね。シンプルでいて馬鹿げていて頭に残る、そのような物語は人づてにどんどん語り継がれ、広がっていきます。彼のアクション(=行為)はモノとして何かが残るわけではないので、一過性のイベントを地域、時代や文化を超えて長く語り継ごうとする、そういった実践としてポストカードを使っています。

もうひとつ挙げたいのが、彼のホームページを見ると、ほとんどの映像作品が自由に閲覧できるようになっています。閲覧できるだけでなく自由にダウンロードもできます。クリエイティブ・コモンズのライセンスがついているので著作権は担保されつつ、記録映像なので、そのものが作品といえるのかどうかはまた別の問題になるんですけども、当事者でなくても誰もがその「出来事」を自分のバソコンで所有することができます。アリスはこのようにインターネットを使って、作品が地域を超えて世界中に拡散していくことを狙っています。今回紹介した作品の殆どの映像があがっているので時間のあるときにご覧頂ければと思います。

地域や時代を超えて、アリスの作品が共有されていくもうひとつの重要な要素は、その作品が決してある土地の固有性に限定されていない、ということだと思います。アリスはしばしばメキシコやジブラルタルであったり、その土地の社会状況や歴史について言及していますが、そこには特定の文脈に回収し得ない普遍性を見ることができます。例えば、氷を押し続けるという、労働の状況を寓意した作品である《実践のパラドックス1》は日本人でも共有できるものがありますし、ジブラルタルの国境を結ぶというプロジェクトも、例えば、日本という場所において中国や韓国との仲がこじれた状況において見られると、「このプロジェクトは日本と韓国との間で出来るのだろうか」とか、自らのリアリティと重ね合わせることができるような普遍性をもっているかと思います。

 最後になりますが、昨年の展覧会の初日にフランシス・アリスと、彼をよく知っているメキシコのクアテモック・メディーナ(マニフェスタ9のキュレーター)を招いて対談を行いました。そのときのジブラルタルのプロジェクトについてのやり取りがとても象徴的だったので、それを紹介して話を終わりたいと思います。

クアテモック・メディーナ: もうひとつ気になる点があるのですが、この作品の政治的な価値はどこにあるのでしょうか?この映像が1つのフィクションとして機能するのであれば、それにはドキュメンタリーとしての価値はないわけで見る人はその場所を深く探ることはできないと思います。またハバナとキーウェストで展開した作品では自分の身元を隠しながら秘密裏に計画を進めていったという挑発的な面がありましたが、それともまた違っています。ではジブラルタルの作品に政治的価値はあるでしょうか?そこは遮断されているのでしょうか?
フランシス・アリス: 私はこのプロジェクトの明らかな地政学的要素を超えたところにある、政治的ではなく人間的な側面に興味をもっていたのだと思います。おそらく政治的な理由付けや意味というのは、特定の場所の特定の瞬間に限定されたものだと思うのですが、こうした物語性を重視することによって、作品に一種の永遠性が備わるのだと思います。子供の遊びのように仕立てることによって、作品が時空間を超越した新たな領域に入るのではないかと思います。

普遍性をもっているがゆえに地域や文化や時代を超えて共有されていくという、アリスの作品の本質が表れていたやりとりだったので最後に紹介させていただきました。私からの話は以上とさせていただきたいと思います。ご清聴ありがとうございました。