つくられていく地域|土川修平さん




――土川さんが池田町で展開されている活動についていつかじっくりお話を伺いたいと考えていました。今日はこちらでスライドを進めながらお話を伺っていきたいと思います。それでは最初に「土川ガーデン」を始められたきっかけからお話しいただけますか。

土川:はじめまして。だいぶ顔見知りの方もおられて少し話しにくい感じもありますが、よろしくお願いします。土川ガーデンを始めたきっかけはいくつかあるんですけど、教員になって2回目になって赴任したのが郡上北高校で、そのときに同じ職場の人たち何人かが、魚釣りが好きで、ここに土地を買って山荘をつくっていつも集えるような場所にしたいねという話がありました。

私が23歳くらいのときで、今から40年位前ですが、そのときに荘川村の一色というところに土地を買って「ほうば美荘」という山荘をお金を出し合ってつくったんです。そのときのルールは、「出せるだけのお金でいいから出しましょう」というので、たくさん出した人もいますが、ぼくは5万円しか出してないんですが、使用できる権利は同じなんです。それで死んだら権利はなくしましょう、最後一人になってしまったら、そのときは荘川村に寄付しましょうと。そしてそこをなんと名付けたかというと「一色国際自然学研究所」とたいそうな名前をつけて、そこで魚を釣って、お酒を飲んで、中には学位を持った人がいて、昆虫の研究をして論文を書いたりとか、季刊誌をつくったりとかしていました。


やがてぼくが岐阜に転勤してなかなかできなくなってしまって、そんな中でこんなことの続きがやりたいなというのがひとつありました。あとは、ぼくが30代のときに米国のアイオワ州にいく機会がありまして、ホームステイをしたんですけど、1日目に「いいところがあるから連れて行ってあげる」と言われて連れて行かれたのが広大な牧場で、そこでみんながいろんなものを持ち寄りながら、納屋ではバンドの演奏をしたり、野外パーティがあったり、その雰囲気がとってもよくて、いつかこんなことが出来るといいな、という思いもありました。

――(スライド)これが、今年4月のIAMASのモチーフワークで土川ガーデンを訪れた様子ですね。そしてこれがそこで栽培されているブルーベリーですね。なぜ、ブルーベリーを栽培することにしたんですか。

土川:ご存知だと思いますが、ブルーベリーっていっぺんにならないで順番に実っていきます。ということは、収穫期が長くて、5月の終わりから9月までみんなが収穫できるんです。

――今年はどれくらいの人々が訪れたんでしょう?

土川:どれくらいかなあ。ここは来て食べるのはただなんですよ。普通と違うのは入園料がないんです。なので知らないうちに来て食べている人もいて、それでも結構な人が来ていると思いますよ。まあいくらでもただで食べていいんですけど、土川商店でアイスクリームのひとつでも買ってくれると有り難いんですが(笑)。

――(スライド)そしてこれが土川ガーデンにある石窯ですよね。

土川:思いつきですけども、火のあるところには人が集まるだろう、ということなんです。最初は焚き火を囲んでバーベキューでもやればいいと思っていたんですが、石窯があるともっといろんなことができるなあということで、つくったんです。経費はだいたい5000円くらいでできますので。実際に出来もよくてなかなか評判はいいですよ。ぼくにしては上手に出来ていると。なんでも美味しく焼けますよ。

――そういうった野外パーティにはどういうふうに人が集まってくるんでしょうか?

土川:どういうふうなんでしょうね。ぼくは一応Facebookでは案内を出したり、知っている人には声をかけるんですが、半分以上は会ったことがない人が来てくれるんです。ともだちのともだちのともだち、というような口コミで来てくれる人が多いんです。

――(スライド)最近は土川ガーデンにコンテナの図書館をつくりましたね。この狙いは何だったんでしょうか。

土川:一番のきっかけは、「ほうば美荘」をつくったメンバーのひとりが亡くなって、その蔵書をあげるって言われて、それをみんなで見れる場所を考えたいなというのがひとつと、もうひとつは、ぼくは人がコンピュータで情報を得る姿よりも、公園なんかで子どもたちが本を開いて読んでる姿、風景というのがすごくいいなあと思っているんです。そういう風景をつくりたいというのがありました。

それと、ぼくはいろんなイベントを企画をするんですが、イベントというのは一過性なので、その一過性を乗り越える文化的な活動を考えてみたかった。1日や2日のイベントではなくて、それを越えて文化の薫りを地域に漂わせる方法はないか、ということを考えたんです。利用者は近所のこどもたちが一番多いです。学校帰りに「秘密の場所へ行く」とお母さんに言ってこのコンテナ文庫にやってきます。

――それでは土川さんが企画されてきたイベントをいくつか紹介したいと思います。まず「草の根文化交流サロンinSeino」というものですけど、これはどういう経緯で始められたんでしょうか?

土川:もともと「草の根交流サロン」というのは岐阜にあるんです。そこはもう200回くらいやっているんです。誰かを呼んでは、その人の話を聞き、懇親会を行う。そこで関心のある人同士がつながり合っていくというのをやっていたんですが、岐阜だとなかなか遠いし、そこでは展示というものが出来ないので、まさに1回のイベントで消えていってしまう。そういうことではなくて、展示も出来て、発表の場もある、西濃地域でそういうものが出来ないかということを考えたんですね。

あとぼくの想いとしては、作家さんたちは発表の場も少ないんです。こういう人がこういう活動をしている、というのを知ってもらう場がなかなかない。そういう場所を保証してあげられたらいいなあというのがひとつ。それを出来るだけ安く、会場とかチラシとか万単位の金額がかかるところを、そういう負担をなくすことができないか。そして、そういうことをやっている人同士がつながり合っていく場所が、大事だと思ったんです。

これはどういうことかと言うと、作家さんたちがやっている文化活動が社会に対してどういう役割があるのかということを考えたときに、彼らは未来へ向かっての新しい価値観を提案する役割を担っている、と思うんです。彼らが提案する役割を担っているのならば、この人たちの活動を保証して発表してあげることこそ、この人たちの提案が世の中に知られていくことになるんだろう、と。個人でギャラリーを借りてやっていく、というのはなかなか大変で、そういうことをクリアしていくためにサロンのような活動があっていいのかなと思うんです。

――ここでお話をされる作家さんというのはどのようにして選んでいらっしゃるんでしょうか?

土川:まずやりたいという方がみえたら、その方の作品を見に行きます。どんなことをやっているか見せてもらって、これはやっていただきたいという方にお願いします。出会いのあり方はいろいろあります。

――人選をみると必ずしもアートにかぎらず、いろんな方面の方々を呼んでいらっしゃいますがそれはどういう意図からでしょうか。

土川:何かにこだわっている人、そういう人を選んでいるんです。生きていく、というのはそういうことかなと思うんです。その何かにこだわっているということを大事にしていきたいんです。

――それでは土川さんが行っているもうひとつの活動ですが、「池田山麓クラフト展」というのを紹介させてください。全国から工芸作家が集まってくるかなり大規模なイベントだと思いますが、これをはじめられた経緯などお話いただけますでしょうか?

土川:これをやろうと思ったのが、ちょうど10年位前ですね。ぼくが大垣北高から大垣工業高校へ転勤したその年に考えました。文化の薫りが漂う空間とか、景色とか、そういうものをつくりたいという想いがありました。このレクチャーシリーズの2回目にお話された黒川大輔さんがクラフト作家でもあるので、彼からこういうものがあるよという話を聞いて、やってみようと思ったんですが、これを話し始めるとかなり長くなってしまうので(笑)、ここで止めておいたほうがよいと思います。

――それにしてもかなり大規模なイベントですよね。資金面、運営面でもかなり大変なようにみえるのですが。

土川:参加される作家さんは150組ぐらいで観客は大体1万3000人くらいの規模です。実行委員は30人くらいなんですが、手伝う人はどんどん増えてくるので期間中動いているのはそれ以上の数になります。企業については、例えば自動車学校などは養老線本郷駅から会場までのシャトルバスを無料で提供いただいたりと、そいういう形で運営しています。

大事なことは、ぼくはイベントをやるときに、視点というか目的を明確にする必要が絶対あると思っています。そうしないと協力は得られません。漠然とではだめで、できるかぎり明確にします。ぼくはその目的を4つ挙げます。ひとつは地域にとってどういう効果があるのか。もうひとつは参加する作家さんたちにどういうメリットがあるのか。さらにお客さんにとってどういうメリットがあるのか。最後にひとつ、これが一番重要なんですが、社会に対してどういう効果があるのか。この4つを常に確認しながら、あらゆることにこの4つの観点を照らし合わせながら運営をしているんです。

――最後の「社会」というところについてもっとお話を聞いてみたいと思うのですが、おそらく後でこの話題に触れることになると思いますので、もうひとつ、土川さんが企画されたイベントについてお話を伺わせてください。「願成寺古墳群美術展」というものですが、これを先のクラフト展と合わせて開催していることとか、そもそも古墳でアート展示を行おうとした狙いはなんだったんでしょうか?

土川:まずその原型として、私の住んでる宮地というところに神社があって、その境内で野外彫刻展をやったのが最初だったんです。それを3回ほどやって、それから願成寺古墳に移っていくんです。なぜそんなことをやったかと言うと、クラフト展の中で「アート」という部分をきちんと押さえたいと思ったからです。イベントというのは案外、安きに流されていってしまうところがあって、その中である一定のレベル、クオリティの高さというのを保証したい、それがこの美術展になるんです。私の家のギャラリースペースでクラフト作家の中でも特に熟練の職人の技を見せる展覧会をやり、周辺の神社の境内では現代アートをやり、その間をクラフト展でつなぐ、そういう構造を最初は考えたということなんです。

その後、大津谷公園というところにクラフト展の会場が移ったので、野外美術展も願成寺古墳群に移したんですが、実は最初から野外美術展はこの願成寺古墳群で行いたかったんです。なぜそう思っていたかというと、古墳というのは千数百年前の遺産ですよね。で、現代アートというのは現代から未来を見据えて発信していくものですよね。千数百年前の遺産にこれからの未来を示唆する作品が置かれるその空間は、過去から未来への時間の流れを具現化する、体感できる空間になるんではないかと考えたんです。

先ほど「イベント性を克服する」という話をしましたが、イベント性を克服するというのは一過性を克服するということで、それは一過性を超えた「広がり」をもたせるということになります。「広がりをもたせる」にはふたつ視点があって、ひとつは空間的な広がりをもたせるということ、もうひとつは時間的な広がりをもたせるということです。空間的な広がりは割と簡単で、いろんなところでやればいいんですが、時間的な広がりをどうもたせるかが非常に難しい。何かいい方法がないかと考えていたときに、過去、現代、未来へという時間の流れというものが具現化できればその一過性を乗り越えるヒントになるんではないかと。もちろん、これだけではなくて、展示の中で子供たちにワークショップのような形で体験してもらうことで、将来に向かっての時間を克服する手段にもなるんじゃないか、そういうことをやっています。

――この古墳群美術展に対する地元の方々の反響はいかがでしたか?

土川:この場所に行く機会が増えた、とは言われてますよね。あとは見方が変わったとか、いい意見もたくさんもらっていますが、逆に、古墳というのはもっと神聖なものなのでこれでいいのかという批判の声もありました。でも大半はいい評価をしてもらえたのではないかなと思っています。先ほど言い忘れましたが、古墳で美術展をやった理由はもうひとつあって、ぼくはもともと歴史の教員なんですよね。それもあって、史蹟の保存というのをずっと考えてきました。なぜ史蹟を保存しなければならないのか、どうしたら史蹟が保存できるのかというのは、今の経済効果と合わせて考えるとなかなか難しいんです。保存しろ、保存しろと言ってるだけでは実は保存はできないんです。それがある程度の経済的効果、現代の社会にとって具体的な形で効果を生まないと保存はできない。では、どうやって史蹟をこのままの形で残しながら経済的効果を生むのか、池田町にたくさんのお客さんが来るのかということを考えたときに、「美術展」という形によって、史蹟そのものには手を加えずに「開発」を行うという、ひとつの例を提案したかったというのがあります。

――実際の展示においては、史蹟の保存のための制約というのがいろいろあって、個々の作家さんとのやり取りが大変だったというお話も聞きましたが。

土川:そうですね。作家さんからもそのような制限があることが大変という話もありました。また別の面で、自分の作品のメッセージが、古墳という強いメッセージに負けてしまうこともあるんですよね。そこで作家には古墳でやるということを織り込んで作品をつくってほしいとお願いします。そこを理解してもらえる方でないと難しいとは思います。

――これまで3つほど土川さんが池田町で行ってきた文化的なイベントについて紹介させていただきましたが、もともと高校教員をされていたにも関わらず、これらの活動を始められたきっかけについてお話しいただけますでしょうか?

土川:言われたようにもともとは高校の教員でしたし、県の役人だったこともあります。それで土日もほとんどなく一生懸命仕事をして家に帰るのは10時を過ぎる、というような形で仕事をしていました。そんなとき、私が45歳くらいだったんですが、父親が亡くなるんです。私の家は150年ぐらい続く雑貨屋なんですが、お店をどうするかという岐路に立たされました。店を閉じてしまうか、ぼくか女房が仕事を辞めて店を続けるか、そういう選択を迫られることになりました。いろいろ考えた末、結局、ぼくはここで生まれて生きてきて、ぼくでこの商売は5代目なんですが、ぼくのときにこれを辞めてしまっていいのかなと思いました。かと言って、雑貨店なんて続けても採算が合わないんでこれだけでは生きていけない。それなら、高校の教員をやりながら出来る範囲で店も続けていこうと。ただそのとき思ったのは、高校の教員をないがしろにするということではなくて、「教育」というのはどんな形でもできるのではないか、ということだったんです。教壇に立って教鞭をとる、それも確かに教育ですが、土川商店をやりながらでも「教育」はできるんじゃないかと思ったんです。

でもそうなると引き換えに、ぼくはもうあの場所から出れない、ということになるんですよ。転勤してどこか行くとか、何かを調査して転々とするということは一切出来ない。あそこで根付いて生きていくしかないんです。そのときに思ったのは、ぼくは村おこしとか町おこしとかほとんど興味がなくて、ぼくはあの土地でしか生きられないのでその地域から、どこにでも通用する価値観を発信したいと考えたんです。池田町であろうが揖斐川町であろうが大垣市であろうがどこであってもいいんです。もっと普遍的な価値観みたいなものを発信しようと考えました。

クラフト展をやったとき、長野県とか山口県とか遠いところから来られた方が「わたしの故郷の風景みたい」と言ったんです。多分、それはどこにでもある誰にでも通用する普遍的な価値観ですね。そういう舞台を、たまたまぼくが住んでいるところから発信しているつもりなんです。その土地に根付きながらどこへでも通用するものを発信する、という想いがありました。

――今言われた「普遍的な価値観」というのは、先のクラフト展における4つの重視するポイントのうちの「社会に対する効果」ということと関連してくるんではないかと思いました。その価値観は社会というものをいかに持続的なものにしていくか、ということと関連してくるんでしょうか?

土川:それは難しい質問なんですが、ものすごく簡単に答えたいと思います。例えば、とっても素敵なお芝居を見たとしますね、ぼくは歌舞伎が大好きなんですが、そういう素敵なものを観て、「ああ、いいな」と思ったとき、人は善人になるんじゃないでしょうか。「ああ、今日はいい芝居を観たな、いい音楽を聴いたな」と思うと、満員電車に乗ってても前に立っているおばあさんに席を譲りたくなるんですよね。ゴミが落ちてたら拾ってもいいな、と思うとかですね。優れたものというのにはそういう力があるんですよね。芸術とかアートってそういう力がひとつはあるだろうと。これが広がっていけば、そういう社会が出来てくるんだろうと思うんですね。もうひとつは、大げさな話ですが、芸術とかアートは、これから人類がどういう方向に向かっていくのかということを示唆することにもなるんじゃないでしょうか。

ぼくも勤めていましたから言うんですが、行政とか役人とかは今ある社会を守ろうとする、今の社会を維持しようというところなんです。ひとは、一人で生きるのが一番簡単なんですが、もちろん一人では生きていけないので、何人かが集まって社会をつくっていく。そうなると、誰かが我慢をしながら生きていかなくてはいけない、つまり、個人が自由にやりたいようにはできなくなる。それでも個人はその中でもっとも自由に生きる方法を探っていく、それを繰り返しながら歴史は動いてきたんです。ぼくは歴史の教員だったんですが、ぼくの捉え方では、個人と集団がいかに調和をとりながら存在していけるかということ、その経過が歴史だと思うんです。

今の社会においても個人と集団のあいだに当然うまくいかないことがいっぱいあるんですが、「もっとこうしたらうまくいくんじゃないか」という新しい発見によって歴史が動いていくと思うんです。「これでいいよ」としてしまうことは今の状態を固めてしまうことになってしまう。歴史を動かしていくには「今、これおかしいよ」とか「これ変じゃない?」というメッセージを汲み取っていく、認めていくということが重要だと思うんです。そのメッセージをアートや文化活動とかが発信しているんではないか。

――そこで、固い言葉で言うと「市民の主体性」というものが重要になってくるということになりますよね。

土川:そうですね。ただ行政を否定するということではなくて、本当の意味での行政との共同ということが重要だと思うんです。市民活動だけでは限界があるんです。来年はクラフト展というのは行わないんですが、なぜ行わないかというのは単にぼくの都合からなんです。個人のことで出来なくなってしまうんです。そこに行政の力が入ると、そういう部分が保証されます。うまい具合に市民と行政とのいい関係が出来上がっていくといいんじゃないかと思います。今ぼくがやろうとしていることもそこにウェイトを置いていて、役場の中に自分のポジションを外れた若い人たちのグループをつくって、そこが中心になってイベントを企画するようなことができないかという話をしているところです。

――それでは話題を変えて、学校という場を離れた「教育」というのを模索されてきたというお話がありましたが、これまでの経験から、何か手応えがあったという点がありましたら、お聞かせください。

土川:それもどう答えたらいいか難しいんですが(笑)、どうなんでしょう。学校というのは高校までというのは一斉授業ですよね。個別的な指導というのは部活動とか特殊な場合になります。つまりどちらかといえば全体に対する教育というのが大きい。あとは、学校というのは建前の社会である。建前を教えている。でもそれはすごく重要なことです。ぼくは日本人の「本音と建前」の使い分けはいいことだと思っています。本音と建前を上手に使える人というのがとってもすばらしい人だと思うんです。昔は建前の部分は学校で教えて、本音の部分は地域社会で教える、というものだったんですが、ところが今、地域社会が崩壊していっているので、学校の中で本音と建前の両方を教えることになってしまった。そこで学校の負担が増えて大変苦労していると思うんです。そこで地域社会がしっかりすることで、本音の部分を地域に任せられるようになるんではないか。ではぼくが何をするのかということですが、地域に根付いて、地域の教育の一端を担おうとするなら「本音」の部分に働きかけなくてはならない。そんなことができたらいいなと思っているところです。

――「本音」というのは「個性教育」の「個性」にあたるような部分になるでしょうか。学校は負担が増える中でその「個性」ですら「マナー」とか「ルール」のように画一化して扱わざるを得ないということですね。それでは教育の話題ということで、さらにお聞きしたいのですが、学生に何か「賞」のようなものを与えてインセンティブを高めるような教育について批判的なご意見をもっていると伺ったんですが、その詳しいところをお聞かせください。

土川:ぼくは高校で子供たちの文化活動を育てる仕事を長くやっていたんですが、例えば文化祭をよくしようとか、レベルを上げようとするとき必ず出てくるのが「それなら、賞をあげよう」「1番とか2番とか順位をつけよう」という話です。ぼくはそれには絶対的に反対してきて、長い間それをさせませんでした。それはなぜかというと、賞を与えることは、それによってある価値観を押し付けることになるからです。「これがいいよ」ということを与えてしまうことになる。評価する人の考えを与えられる側に押し付けることになる。もちろん学力を計ったりすることは別ですが、文化活動について評価をするというのはなかなか難しいのではないか。

高校生の文化活動で言うと、高等学校文化連盟がやる文化祭などは賞をつけません。それ以外にコンクールというのがあって賞をつける。そのような二つの流れがありますが、技術を評価することはできても、価値を評価するというのは難しい。学校としてひとつだけそれが許されるのは高校生たちが未熟なので大人の立場から俯瞰して賞をつけて評価するという立場はあるかも知れませんが。

――多くの場合は、賞を与えることが価値観を固定する方向に働いてしまうということですね。さて、時間も迫ってきましたが、ここで話題を変えて、土川さんは「野原桜州」という日本画家の研究家でもありまして、この画家の研究を通して明治後期から大正、昭和初期にかけて価値観が大きく変わる中で「近代化」がどのように受け止められたかについて考察していらっしゃいます。それについてお話を伺いたいと思います。

土川:ぼくはこれだけでも1時間でも2時間でも話してしまうのですが、今日は簡単に話したいと思います。野原桜州という人は明治10年代に生まれました。西欧文化が入ってきて、日本が近代化されていくので当然、絵画にも影響が入ってくる。そういう時代に生きていた人で、昭和の初期に47歳で胃癌で亡くなります。ぼくがこの人になんで注目しているかというと、実はこの人と同じ年に生まれた有名な人がいて、藤村操というんですが、ご存知でしょうか?藤村操という人は華厳の滝からわずか18歳で飛び降りて自殺したんです。この人は一高で夏目漱石の弟子でもあるんですが、「人生は不可解なり」という言葉を残して死んでしまったんです。彼がなぜ死んだか、いろんな説があるんですが、西欧文化が流れ込んできたときに、自分というのは、個人というのはなんだろう、ということに悩んだ末だったと言われています。そのときに、日本の若者たちは大きな影響を受けるんです。同い年であった野原桜州も当然のことながら、影響を受けていると思います。

人間って、個人ってどのように生きたらいいのか?それまでは国のために生きるというのが立派だと言われていたのが、個人主義という考えが入ってきて、非常に悩むことになるんです。桜州は中学を卒業して今の東京芸大に進みます。そして日本画的な日本画から、近代画のような日本画へと変わっていく、そういう変遷が面白い。「価値観」というものを人はどのように受け入れていくのか、自分の価値観というものがどうやって出来ていくのか、外からの価値観をどういう風に自分のなかに取り込んでいくのかということを、言葉ではなくて、作品の中から読み解いていくんです。言葉はむしろ、嘘がつけてしまう。自分の都合のいいように整合性をとってしまったりする。でも作品はそうはいかない。そういうことをまだまだ途中ですが読み解こうとしているんです。

――確かに桜州の作品を見ていくと、中には不気味とまで言えるような、そういう特異な印象を与える作品もあったりしますね。それは、土川さんの言われる近代化という価値観との葛藤や、明治後期から昭和初期までの非常に密度の濃い時代の変化を表しているのかもしれません。ここに『私自身であろうとする衝動』(以文社、倉数茂 著)という、関東大震災から大戦までの様々な芸術運動について書かれた本があるのですが、これもまさに芸術作品からその時代を読み解いていく試みなのではないかということで紹介しておきたいと思います。

それでは、最後の話題に移りたいと思うのですが、土川さんのところにはいろんな人たちが絶えず集い、いろんなコネクションをつくったりしていて、しかもそれが自然な形で起こっているように見えます。そこがいつも興味深いと思っています。土川さんのところでは、詩の句会もあれば、先ほど紹介したサロンという催しがあったり、ガーデンでパーティをしたりと、いろんな人たちの集まりのレイヤー(層)が微妙に異なっているのですが、たまにそのレイヤー同士が出会う瞬間があったりする。それをどう名付けたらいいのかわからないのですが、新しいつながりの可能性、とでも呼ぶのでしょうか、そういうことについて何かお考えになっていることがあればお話しいただけないでしょうか。

土川:いや、みんな勝手にやってるんです(笑)。土川ガーデンには畑もあるので、みんな勝手にきて勝手に耕して栽培して勝手に収穫していきます。ぼくがいなくても勝手にやります(笑)。これをなんて言うんでしょうね。わかんないですね。

――先月のレクチャーで、豊橋技術科学大学の岡田美智男先生にお話を伺ったんですけども、そのとき「弱さ」について、あるいは「自立と依存」のあり方についてお話をされました。「自立」というのは、実は依存できる関係性や選択肢をどれだけ多くもっているか、ということであると。そのような見方で土川さんの活動を見たとき、どこか共通する点を感じてしまったのですが。

土川:それを聞いたときに、なんか、あ、そうなのかと思いました(笑)。ぼくはなにもできないんですよね、極端な話。文化とかアートとかいいながら絵も描けないし、音楽もできないし、不器用でものをつくることもできないし、なにもできない。ぼくがなにもできないから、いろんな人がやってきていろんなことをやってくれるのかなと思うんですよね。クラフト展にしても美術展にしてもぼくが一生懸命になってがーっとやるんじゃなくて、おそらくぼくは「やろう」と言うぐらいかも知れません。そうするといろんな技術をもった人が来て、やってくれるんですよね。今はそういうような形でできているんです。ぼくは小さい頃からそうだったんですが、友達が3人いると、必ず会話に加われなかったんですよね。わーっとみんなが話しているとき、ぼくはポツンとしてしまう。そういう人たまにいますよね、奇数になると、会話の外に出てしまうような。ぼくはそういうタイプだったんです。多分、「弱い」んでしょうね(笑)。だからみんなほっとけないのかもしれない。

――その「弱い」ということも実は逆説的な意味をもっているような気がするんです。さて、これで本当に最後の話となりますが、これは土川さんの教え子にあたる方で、宮川さとしさんという方が描かれた『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』という漫画があります。そこに土川さんが最後の授業で話されたことがエピソードとして描かれています。そこには「我々は死に向かって生きている以上、皆寂しくて当たり前」というようなことをお話しされたということですが、ある意味これはわたしたちの「弱さ」の究極的なあり方でもあるようにも思えます。そしてそのことは「自立」や「社会」を考える上で示唆を与えてくれるお話でもあるように思うのですが、もう少しこれについて聞かせていただけないでしょうか。

土川:これだけ見ると、前後がないので誤解を生じる話かもしれませんが、これはぼくの加納高校での離任式の日だったんですけど、離任式では「大きな魚を釣ったよ」という話しかしてないんですが(笑)、その後に担任していた2年生の子たちが「ちょっと来てくれ」と言うんで行ってみると、特別に教室を用意してそこに集まっていて「ここで最後のホームルームをやってほしい」と言うんです。なんにも準備をしていなかったものですから、不意打ちみたいなもので、咄嗟に話したのがこの話なんです。話したのはここにある通りで、人間は、はかなくて弱い存在なので、だからこそ自分たちがひとりではなく、みんなで生きていくんだということを伝えたかったんです。彼がそのように受け取ってくれたかどうか。でもこういう漫画にしてくれたことはなにか印象に残ったということなんでしょうね。この子は、あとで知ったんですが、大学に行って3年生のときに白血病になって生死をさまよって、骨髄移植によって治るんだけども、決まっていた就職はできなくて、それから塾の先生をやりながら漫画の勉強を始めるんです。だから生きるとか死ぬとかいうことを、ぼくらが思う以上に考える時期を過ごしたんじゃないかと思うんです。

最後に、これは宣伝になりますが、宮川さとしくんの描いた漫画の原画展を2016年の6月に「草の根文化交流サロンin Seino」でやります。そしてもうひとつ、PRをさせていただくと、2015年2月28日に数学者の岡潔についてのサロンを行いますのでよろしかったらみなさんご参加ください。

――それでは今日は興味深いお話をどうもありがとうございました。